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天気の子

 

 今回はブログというよりはちょっと番外編で、新海誠の新作「天気の子」を同日に別の場所で見た友人(以下S)と私(以下M)が交わしたラインを掲載してみます。深いところまで議論が及んだわけじゃないけれど、今作に対する我々のスタンスの違いって割と多くの人に当てはまるんじゃないかなと勝手に思ったので。鑑賞一度目のオススメとしてはできればこの記事も読まず、RADWIMPSの主題歌も聴かずに劇場に向かうことではありますため、ネタバレ等々気にする方は是非そのタームを踏んで頂けると助かります。もう見たよって方や、マジで色々気にしないぜって方はよかったらスクロールしてみてください。

 

 ※文章の内容や映画とは一切関係ないですが、友人Sが脚本を、私Mが脚色演出撮影編集したfedress「矢印ふたつの両想い」も併せて見て頂けるととても嬉しい!

 

 

 

 

 

 

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M:「天気の子」見た!

 

S:俺も見た。どう思った?個人的には永遠に77~85点を行き来してる感じやった。何て言うんやろ、ちょっと綺麗すぎる。

 

M:辛辣だが、それもまたよし。本当に感じ方は人によって全然変わる気がするねん、生活とどう向き合ってるかみたいなレベルで。

 

S:毒抜きした「イリヤの空、UFOの夏」はこんな感じなんだろなと思いながら見てた。

 

M:ラストの台詞が「だから僕らは大丈夫だ」かつ歌い終わりが「僕にできることはまだあるよ」じゃなかったら、全然違う評価になってたかも。

 

S:あー、そこまで深く考えてなかった。

 

M:時代に対する強固なメッセージを感じられたから、ご都合気味な節もある展開とか背景周りの雑さももう全然OKかな、甘いかもやけど。個人的にめちゃくちゃ気が滅入ってたから、今見られてよかったな。ほんまに個人的な都合やけどね。

 

S:それは確かにあるな。煙草然りSNS然り揶揄は多かった。

 

M:なんかもう、とにかく細部の粗とか全く気にならんねんな(終盤ギリギリまでほんまに色々気にしてたけど)。それらを最後にひっくり返せる、簡潔だけど時代の不協和にフィットした言葉を置いてける、時代に必要だと勘違いでも思わせてくれる映画であるのがめちゃくちゃ嬉しいというか、表現しにくいけど。

 

S:この映画の感想を言葉にするの凄く難しいし的外れかも知れんけど、本当に全部綺麗すぎるねんな。映像も音楽も流れるタイミングも、キャラクターたちも全部。違和感がある訳じゃないんやけど、想像の域を出ない感じだった。

 一方で、設定は素晴らしいと思った。セカイ系を描くに当たって難しいのはその世界観と設定を視聴者に受け入れさせることやと俺は思ってるんやけど、それを物凄く自然にストーリーに組み込ませて尚且つエンタメに昇華させてるのはもう圧巻だった。そこからシリアスに切り替わるのも自然な流れでやってのけてるし、"天気を操る"という設定をセカイ系に発展させる独自性は◎。

 ただ、セカイ系の肝はやっぱり世界か彼女かの二者択一を迫られたキャラクターたちの葛藤にあると思うんやけど、そこに意外性が無さすぎたかな。帆高は陽菜に一途で彼女一択だし、迷いも丸でない。理想的だけど優等生過ぎると言いますか。別に「イリヤ」における主人公・浅羽のそれを求めてる訳じゃないんやけど、あれだけ陽菜一筋だったくせに三年の保護観察はあっさり受け入れるのか……的な違和感は抱いたし。陽菜は世界か帆高を選ぶ前にもう少し葛藤があっても良かったんじゃないかな、ちょっと使命感抱えすぎなんじゃないかなとも思ったし。そういうストーリー展開に彼彼女らの心情が流されてしまってるような気がしてしまって、それでも大きな違和感を覚える人はいないだろうから、あー、綺麗だなーと思ってしまったんかな。

 エンディングに関しては攻めてて好きだった。確かにこれが「帆高は陽菜を救いました。東京も晴れました」やったら納得できないし。自分等が仕出かしたことを受け入れながら東京で生きていく感じも好きだった。

 

M:構造主義的にそれぞれの要素を洗い出すと確かに「綺麗過ぎる」。誇張なしに、言う通りやと思ったしマジで異論がない。あの坂道で三年を経た彼が納得しかけてた「仕方ない」って言葉、あれを畳み掛けるように自己否定し出すまでは本当にそう思ってた。画の美しさに何度か涙してしまったけど、でもお話としては全然納得してなかったのよね。

 ただちょっと考えたいのは、新海はそもそも全てをなぞる形で世界系をやろうとしたのか?ということ。展開やキャラの行動が想像に易しいのはきっとその結果で、迷いに迷って結局はお約束をなぞりきるしかなかったんだと思うよ。そうして作った上でラスト、前提をぶっ壊す形で(まさに主人公が諦念を自己否定してヒロインの手を取ったように)、最後の最後で都合のいい綺麗事を言ってしまうんだから、作りながらも凄まじい葛藤があったはず。というか、そのラストから思いついちゃったんじゃないかな。不安の多い時代を生きる誰かを肯定したくて作り始めて、結果としてそのメッセージの空回りがあった。近年の大作映画でも多々見られるけど、メッセージが先行して中身が伴ってない、ご都合主義的な展開。ここでこれをこいつに言わせたいから先にこう行動させよう、という傀儡にしかキャラがなってないのは、お前さんの指摘通り。そういう思いがはみ出た部分に狙いとしてラストのメッセージがあるとして、一方でその粗として全体に迷いが出て、傀儡たちをレールに乗せるためにセオリーに沿いきるしか手段が無かった、そういうフィルムだと思う。またその制作上の葛藤が、物語の泥臭さには反映されてないってのもマイナスポイント……ここまでは構造主義的に見たら、確かに絶対にそう。でも少し違うと思うのは数多作品群に対してそのメッセージの強さ。そして何度も言うようだけど時代とのマッチング。

 これはどんな映画を見てもいつも反芻することだけど……観客個人が果たして映画に対してその出来不出来を買うのか、心意気を買うのか。何に賭けるか、という意味でもあるけど、その点ではやっぱりあのラストの一言とRADWIMPSの歌の最後の二行を作品全体のメッセージとして乗せたことと、この時代に実弾として放ったこと。色々思うところはあれど、どうしてもその心意気を自分は買ってやりたくなる、って感じかな。作り手の欲望の発露を感じられる面白み、そして誰かと語り合うに足るかどうか。そういう点だけ見ても少なくとも純にいい映画だったのかなと思う。全部がウソの作り物で、誤魔化しまで多用しないとを設計しきれないアニメーションという媒体だからこそ出来たのかもしれない試み、という意味で日本のアニメーションの詮無い未来をそれこそ「大丈夫だ」とか「できることがまだあるはずだ」と思えるような。なんだかいつも通りポエミーになってしまったけどこんな感じです。笑

 

S:噛み砕いてくれたおかげで言いたいことはよく分かった。確かにラストをどう捉えるかは人によって分かれそうやね。俺の場合少なくともラストに自分や時代を重ね合わせることはなかったし。そこに関してはやっぱり映画の見方や生活の違いもあるんだろう。心意気を買うっていうのも凄く納得できる感想だ。そういう見方を踏まえて改めて考えると、なるほど面白いね。凄く腑に落ちた。メッセージ性が強い映画なんだなって再認識させられたわ。ありがとう。

 

M:細かいことやけど、背景の実写テクスチャーがめちゃくちゃ雑に見えてしまったり。引きと寄りでキャラとモノのサイズ感全然違う箇所も散見されたし。さっきもらった感想も踏まえてもう一回見に行ったらめちゃくちゃ冷めちゃうかもなんやけどね。笑
 一回目の鑑賞で自分が持った熱としてはここまでに書いたような感じ。というかこちらこそありがとう。実りある議論ができた気がする……!ここまでの内容、コピペして多少直して早々にブログとかで公開しようかなと思うんやけど、どう?

 

S:俺は逆にもう一回見に行ったら熱入りそうやな(笑)
実のある議論と言ってくれたなら何より。コピペでもなんでも勿論全然桶丸水産。

 

 

 

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遠闇雲上


 金曜日。仕事から帰宅後、何もやる気になれず布団に顔を埋めたまま訳もない悲しみに暮れ、脳内遺書の執筆に励んでいると目が潤んできたので即座にやめて煙草を吸う。眠りかけたところに友人から電話。取るまいか悩むも一応出てみると涙声だった。聞くに、一か月でふたりの友人が亡くなったらしい。どちらも自殺だったそうで、普段は強気な彼が涙するところにはじめて立ち会ってずいぶんと戸惑った。何度もお前は死ぬなよ、出来るならとと言われて正直ギクッとしてしまう。自ら絶命する勇気なんて結局つかないままきてしまってるし、そしたら田舎に越そうと考えているこの頃だったのだ。電話を終えて堪らず「キッズ・リターン」見返す。浮かべた言葉は永劫回帰、そして煉獄。今の自分にはやはりこれしかないのだという、強い確信を得る。

 

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 翌日土曜日、とはいえ迷う。コンテ作業進まずに雨の中自転車でレンタルビデオ屋へ。適当に未見のもの数本と「海がきこえる」を選び帰宅。翌日の打ち合わせに向け資料など準備しながら、やはりコンテ進まず。諦めてミスド嗜んで寝る。

 

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 日曜日、打ち合わせ。色々話が弾み、良い機会を得られたことが純粋に嬉しい。課題は山積みだけど着実に片付けようと、帰宅後夜中まで映画。「海がきこえる」のファムファタールを再発見しつつ「キッズ・リターン」の林が元々女性の予定だったなんて与太話も過って、点々を自分勝手に繋げてわいてきた気まぐれなやる気を携え一晩缶詰しにマクドナルドへ。近所の店舗が閉まってたときは心が折れかけるも、2駅先までチャリかっ飛ばしたそのままの勢いで朝までに約50cut、コンテ切り倒す。粗はあるけど納得の出来。一旦眠る。次の日は友人らと、友人の犬と目一杯遊んでもらいました。

 

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水曜日。夜22時頃まで喫茶店をハシゴしながら無事にコンテを描き終える。短尺82cutという物量に眩暈がしながら「の・ようなもの」。イメージショットと純な時間軸の入り乱れが妙に心地よいし、デビュー作から「家族ゲーム」に見た団地との向き合い方が既に確立されてて感激。恋、のようなもの。生活、のようなもの。夢、のようなもの。我々はいつまでも誰かのそれを脇見つつ繰り返すのだろうか? 

 

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木曜日。ショッキング、なんて表現がすっとんきょうに聞こえるほどシリアスな事態に一日何も手付かず。燃えたあの社屋には足を運んだことがないが、就職活動の時分に別のスタジオへ招かれたことがある。あのときの求人倍率はきっと私がこれまで潜り抜けた門戸のなかで最も狭かったと思うし、今でもたまに思い出すと誇らしくなったりする。面接ではなにも言えなかったし、筆記試験もからきしだったろうが、だからこそ一度は諦めたあの業界に今自分が立っていることを思うとむしろなにもできない無力さ、哀しみ、悔しさに、本当に胸が痛い。今回の件で京都アニメーションの機能は少しの間止まるかもしれないが、またどこかのタイミングで制作は再開されるだろう(と、信じて待つ他ない。待つことはやはり祈りそのものだ)。とはいえやはり既に亡くなった方もいると報道にあるのがどうしてもやりきれない。戦後最大の放火事件とすら謡われるそれが、どうしてアニメーションの現場で起こる必要があったのか、いや、どこでも起きてはいけないけど、なんでわざわざ……。せめて事故であってくれたならもう少しまっすぐな心持ちでいられたであろうか。詳細が語られる度、明確な悪意の存在に嫌悪と身震い、怒りが止まらなくなる。

 

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自主制作の実写は基本フィックスでレイアウト主義、コマ単位での動き修正も駆使してニセモノをいかに本当らしく出来るか実験し続けているが、その姿勢は日本のリミテッドアニメーションから学んだ節が正直に言って大いにある。なかでも特段、聖地を設定してその土地のシンボルは言うまでもなく、なんでもない路地裏にまで絶対的な意味を含ませんとする京都アニメーションのやり口は今でも自分の骨子となっているし、大学時代にはいよいよその作品の中から聖地そのものまでロケ地として借りてきて、あのスタジオから産まれた作品群の醸す外連味になんとか近付けないかと躍起になった身でもある。

 

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何かを失う度に改めて強く感じる、我々はそういう憧れの手つきをつぶさに観察し、模倣し、時代にマッチするよう研磨し受け継ぎ、暗闇にある次の誰かの手に向けて......たとえ手応えがなくとも自作の頼りないバトンを読んで字の如くやみくもに、送り出すことしか恐らくできないのだろう。帰宅後即、件の自作82cutを読み返す。我ながら、なってない……!と絶望はすれど希望は捨てたくない。こんなこと、もうずっと繰り返してきたけどふと振り返ったら以前よりずっと成長してるなあ、ということもままあるから。永劫回帰だろうが煉獄だろうがそこを徹底的に歩き回って、わずかでも一瞬吹く風が運ぶなにかを血眼で拾い集め、いつか自分なりの形をした武器になるまで。それまでは、もう少し先達の意匠を借りながら精進するつもり。

 

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"欲しいものはいつでも遠い雲の上"

 

 

二割五分


 自分が「夢見るリアリスト」であるのではないかということについて(※夢見りあむではない)。

 あの頃の教室や、今も歩く街中で「相容れねえな」と感じる彼奴等は現実世界をめいっぱいに楽しみ、騒ぎ、それなりの頻度で世間様へ迷惑をかけているように見えて一方で、当時で言えば自分が属するクラスという組織を盛り上げることに腐心していたり、今で言えば立派に仕事をしながら子供を育て上げたりしている。あくまで現実世界の範囲で、時に自分の理想を振りかざしながら自己実現を果たさんと躍起になる彼ら彼女らを「実現可能範囲内のロマンチスト」であると仮定しよう。その上で自分を顧みると全く逆の性分であることに気付く。大きい夢や、目標や、いい歳になってまだ抱えているモラトリアムと日々付き合いながらともすればそこに身を投じきれない歯痒さ。ある種のスーサイドに踏み切れずいる私は「明日」「今日」「この瞬間」の安寧やルーティンより脱することの恐怖からのゆるやかな逃避を被害者面で続けながら、片手間にそろばんを弾くようにそのリスクやコストの計算をきっと無意識のうちにどこかでやっている。VRゴーグル装着して尚四畳半の箪笥に小指ぶつけてあくまで仮想世界で号泣、みたいな感じでしょうかね。わかんないけど。なんとまあ効率が悪い性分。これじゃ日がなめっちゃやむのもやむなしかな。

 

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 そんな矛盾を抱えた私に搭載されているエンジンは憎しみ妬み嫉みで動くらしく、最近は職場やインターネットのつらみにわざわざ首を突っ込んでしまっているんじゃないか、とすら感じるくらい悲しい出来事が目に付いてしまう。そんな自分にウンザリ。本当はこんな悲しい機構で動くの、めちゃくちゃ嫌だしやめにしたいんだけどね。だけど世の中のことも知っておきたい、とか言い訳しながら政治経済のことはなんとなく流し見するだけ。うわあ文字にしてみたら本当にダメな人間だな。方々に転移しきった悪しき意識を浄化するべく、中身を総入れ替えするならばきっとガワだってバラさないといけない。ガワをバラすくらいなら最初から作り変えたい。可能であれば、ストリート系ファッションに身を包んだショートカットダウナー美少女に。だけど人間は機械じゃないのでそれもできないっぽい。つらい。前向きに生きたいな。そういうの、なんとなく意識してるだけでもいつの間にか良い方に変わってたりすることだってあるし、とりあえず気にしておく。人間は機械じゃないのだから、この環境に耐え抜くための私の進化に期待です。

 

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 かつてオードリーのANNで若林がこんな話をしていた。

 「野球にしろ博打にしろ、当たるかどうか、2割5分くらいが一番面白くて、人はそれで中毒になる。昔、ラットを使った実験で"Aボタンはエサが必ず出る/Bボタンはエサが時々出る"ってことを仕込んで、Aボタンからエサを出ないように設定をいじると、以降、Aボタンをラットはボタンを押さなくなった。同じく設定を変更しても、Bボタン側のラットは諦めずに押し続けるらしい。どっかでぽろっと出るんじゃないかって信じちゃうから。そう考えると春日は自分にとってのBボタンで、2割5分で、だから俺は中学の頃からずっと春日中毒なんだ」と。

 

 私に限っては、これはきっと間違いないよね~なんて作品はわざわざ劇場まで見に行かない気もするし、DVDだって買ったり借りたりしていないのかもな。そもそも人生とか、未来への期待だってきっとBボタンだよね。途方に暮れながら半分無心でトライし続ける、さながらバタイユのサイコロだ(最近覚えた)。

 

 自作だって、2割5分くらいはヒットを飛ばせていたらいいのだが。

 

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 "人は誰でも自分の立場を卑下し続けることは、なんていうか、しんどい。しんどいのはやんなっちゃう。何としてでも「こっちはこっちでね、イケてるんだよ、へへん」と誇りを持たなくては、この先創作活動する上で都合が悪いのだ。"

 webちくま連載 Aマッソ加納「何言うてんねん」 第13回「みんなで勝ち得た、それでいいのさ」より(http://www.webchikuma.jp/articles/-/1729)

 

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 先日部屋へ泊りに来た友人から、バットを振らないと始まらないよ、と言われた。そんなハルハ・ラハル(a.k.a ハル子)みたいなこと言うなよと感じたけど、キャッチボールがしたいだけなんでゲームはごめんだねと伝える。野球は特段好きじゃない、サッカーも大昔に長いことやってたけど下手なまま辞めてしまった。10年以上続いたスポーツは唯一水泳くらいで。それも早く泳ぐとかじゃなく、だらだら泳いでしばらくして振り返って遠く海岸を感慨深げに眺めたり、スクールでは誰と競うでもなく今日は一体何メーターいったかねとちょっと数字を気にしてみたりするのが好きだった。昔っからまるで成長しねえな、と思ったところで昼休みが終わった。明日からいよいよまた本業が忙しくなるっぽい。溺れないようにしなきゃな~と微睡みつつ、今日もめくるめく転職サイトをネットサーフし息継ぎのように煙草を吸う私でした。

 

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 上のテキストをしたためて数週間後、無事炎上中の現場で「機嫌良うやりましょうや!」「元気よく行きましょう!」と連呼する機械になった私。これではまるで「ロマンチスト」の彼奴等と変わりないのではないか……と悩みかけるも、いや待てよと。自分がネガティブであることは痛いほど自覚しているけど、だからと言って他人や環境に対して無用にネガティブである必要もないと思う。押し付けがましいのは当然ご法度ながら、誰かに対してポジティブなイメージを持ったり、それを喚起することにブレーキをかけすぎるのは良くないなと最近思った。結局自分はキャッチボールがしたいだけ、というのもきっとそうで、シビアなことでもくだらない話題でもとりあえずきちんと議論することが大切なのではないか。顔を突き合わせて、腹を割って話す。そこで喧嘩になったりするのは確かにつらいけど、行為自体は建設的で、健全で前向きで素晴らしいことなのではないか。

 

 取り急ぎ、他人のことをあれこれ陰で揶揄したりするのをやめてみた。

 

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 そうは言っても周囲は変わってくれないし、そもそも煙草を吸い始めたきっかけである今の職場の上司はやっぱり相変わらずである。いい加減気付けよなと思う反面、そのことをブログに書いているようじゃあまだまだ私も変われていない様子。本当にやれやれです。

 

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 「自分を世界の形に削るのか、自分の形に世界を削るのか」とのエクスキューズを序盤に投げかけ、最後までそのテーマで走りきった鬼頭莫宏なるたる」。最終巻、巻末の言葉にはかれこれ10年間生かされている。

 "「かけがえのない命」。そんなモノに救いを求めていても先には進みません。あなたがいなくても、たいして困りません。自分がいなくても、まったく困らないでしょう。だからこそ、無くてもよい存在だからこそ、がんばるのだと思うのです。"

 

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 先週から痩せようと思って1日1万歩、歩くようにしている。

まずは世界の形をきちんと知ることからはじめてみよう。

 

 

煮凝肩凝


(本業以外は)暇になるだろうと見込んでいた下半期、
ありがたいことに9月あたりから何件か制作の依頼があって、
また思いのほか本業の方も忙しい昨今でしてブログの更新はすっかり滞っていました。

「面白いからいつも読んでる」と言ってくれた何人かの友人には申し訳ない気持ちでいっぱいですが私は彼らを信用しているので、きっと私が「追い込まれたら単に追い込まれてしまうタイプ」なのもきちんと理解くださっていることと思います。
なので今も絶賛追い込まれてはいるんですがふと感じるところがありまして、
日に日に重く分厚くなっている腰回りをよっこらせとデスクの方へねじり、ブラウザを立ち上げてみた次第です。

 

日常的な出来事から色々紐づけて考え、

書いていけたらいいかなと思ってこんな場を設けてはじめてはみたものの、
先述の通り、制作の依頼があるということは脚本を書かなければいけないわけで。
特段私はこの脚本という作業の進みがいつも芳しくないというか、

人と比べてどうにも遅い気がするんです。
だから最近は脚本家(とは名ばかりのか弱き友人たち)を別に立て、
絵コンテ前のイメージをある程度固めてもらったりもするのですが、

いや、でも面白いです。
自分以外の誰かの手つきに映像を触発されることもあったり。
もちろんMVだと音や芝居でそんなことは多々起き得るんですが、逆に音や芝居以外からって体験があんまりないので。
とはいえ書いてもらったものを反芻した上で「映像的にどうなのか」の線引きをしてしまい、ほぼ修正してしまうのでこればっかりは申し訳ない限り……。

 

以下はその線引きに関する言い訳なんですけど、
映像化して陳腐になるものとそうでないものってやっぱりあると思っていて、
それがまたアニメーションと実写では線引きが若干異なっていたりで、
私はアニメーション的な考え方で実写をコントロールしたい欲求を持っている人間だから、なんというかその、まあ、あんまりアニメアニメしいものばっかりを好んでいるわけではないんですね。ここ割と勘違いされがちなんですけど。

 

絵として映えるものと画として映えるものって違うし、
肉体的に映えるものってなるとまた違ってくる。
更に言えばMVは何よりもカラオケビデオになる危険性の真隣で成立しているようなもんなので、そのあたりの感覚は先述の脚本家(とは名ばかりの以下略)とこれからも付き合っていくなら、なんとか上手く擦り合わせられたらいいなとは考えてます。
やっぱり見てきたものって違うし、同じだとして何を見るかは違ってくるし、それを再現する手つきがそれぞれ違うから演出っていう概念が生まれているんだろうことも一応理解はしているつもり。

結局こうして説教臭くなる(割に自分だって大したこと出来てない)のも嫌なんでほんとうまくやんなきゃなと、
演出家(とは名ばかりのか弱い病弱メガネデブ)は悩むのでした。

 

だけどね、最近なにより悩むのが「こんなの職業にできるわけないじゃん」ってこと。
だいぶ語弊のある言い方だけどそもそも演出業って「ごう」であったとて「ぎょう」にはならないんじゃないかって。
自分の体験や言語化できない何かを形にせんと人生を切り売りする、実現までの時間のかけ方に対して、適切な給与なんて支払えるわけないと思うし(少なくとも自分はいくらもらったところで満足なんて一生できないんだろう、最悪だねごめん)、そこに必要な莫大な資料とかも経費じゃ落とせないじゃん。例えどこかに所属していても全部を認めてもらえるわけじゃない。

世の中に無限に垂れる見識や、雑味すなわち経験知(引用元:マテリアルクラブ"Nicogoly")の蜘蛛の糸を手繰って例え手応えがあっても、先に釈迦が待ってるなんてこともない。

 

だから「ごう」であっても「ぎょう」じゃないなって思う。

業(ごう) : 人が担っている運命や制約。主に悪運をいう。 (大辞林)

あー。

 

 

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「演出家になりたいって言ってた割にお前、なんかしてんの?」
→家に帰ってコンテを描いています。

職場で寝るあなたみたいに"公私混同"はしていません。

 

「もっとコミュニケーションとりなよ」
→自分がされて嫌なことを誰かに対して、決してしたくないだけです。
私が嫌だと感じるラインを余裕で超えてくるあなたは私の努力を見てないか、

線すらも見えてないだけ。

 

 

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「楽しく売れることを目指すことは、良くないことだろうか。」

とはAマッソ加納さんのコラムから。

 

ため息はつきたくないな~。

 

潮催煙城

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いきなりですが告知です。

9/1 大阪・日本橋はCafe forestaにて14時スタート、

Balloon at dawn”Tide”リリース記念トークイベント に出演致します。

時間は18時までを予定していますが途中入出場可能にしたいと思ってますので予定の合間にちらっと覗いてくださるだけでもぼくらは嬉しがります。

 

登壇はBalloon at dawnのみんな、ビデオ出演の藤井愛稀さん、

更にKensei Ogataさんがスカイプにて参加。

当日の裏方兼MV監督として話すのがわたくし前田です。

自分用の台本準備し始めてますがこれ時間内に収まるかしら……。

幻の絵コンテとかも出せたら出しちゃう。

なんとか詰め込んでけたらと思います!予約は以下から

 

https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSd4H7Rhs82RFvAl1Bm1JSj2UC-trWvgybtLMOOz3G_oF75qbw/viewform



そしてなんと9/7(金) 東京編も開催です。

Bar Space下北沢ERAのうえ(下北沢ERA 5F)にて19:00スタート。

こちらは春希さんが企画してくださいました。

大阪編ではバーチャル出演のKensei Ogataさんも生身での出演!

大阪とはMV解説のやり方変えようかな~なんて思ってますが、

質問あればなんでもお答えしますよ!予約は以下~

 

https://docs.google.com/forms/d/e/1FAIpQLSePVWLIfGanHDsHGk7cbpL33Kn4ohCiZ_wMmqgx733TWzabEQ/viewform

 

 

ビデオに関する質問やそのほか何でもsarahahへ……!

送ってくださった質問は大阪・東京両方のイベント当日、お答えできればと思います。

( https://kmcnmanm.sarahah.com/ )



参考までに現段階で

・連作3つのあらすじについて

・ロケ地について

・彼女はいますか?

という質問が来ています。

 

最後のはともかくとしてラフな感じでも突っ込んでもらえたら前田が喜びます。

よろしくお願い致します!



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それから......横柄な言い方になってしまいますがBalloon at dawnのライブとてもよかった!

たくさん本数見ているわけではないんだけど、レコ発とか節目のライブを見させてもらってる自覚はあって。これまでとは内面から洩れてる気迫が全然違ったな。とはいえみんな演奏はあくまでもクールというかフラットで、それが曲の温度感と合ってるからダレも疲れもせずという......。ライブアレンジも冴えてた。偉そうなことあんまり言うとアレな具合ですが、これから東京2本行かれる方はきっと楽しめると思います!迷っている方もぜひね!



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以下からスーパー自分語りタイムになりますが、

2,3週間経った気がするので告白しますと最近、煙草を吸っている。新しい仕事を任されるようになったから、趣味の方でも何か今までと違うことをはじめてみたくなったのだ。

 

それならむしろ嫌煙してたものくらいが視野を広げるにはちょうどいいかなあと考えて、文字通りケムリに手を出してみて、わかったこととしては時間の流れ方とその価値が変わるということ。

 

これはとても大切なことだと思う。

 

タバコミュニケーション如何については反論もあるので協調はしたくないが「どこかに移動しないと吸うことを許されない」という条件、これはリフレッシュするにおいてはむしろ功を奏している。

 

職場じゃデスクでスパスパ吸うわけにもいかないから、正面玄関にまで出て5分~10分黄昏たり、自分の部屋で吸おうにも台所に立つか、ベランダに出るかしないといけない。つまるとこパソコンの前を離れることになる。これがいい。作業から離れるスイッチの切替が身体のリズムとして実行できるのだ。

身体を害さにゃそんなこともやれんのか!と仰る非喫煙者様方の気持ちもよくわかる、この間まで自分だってそう思っていた。しかしぼくの場合、そういう自分こそ棲み分けがものすごく苦手な人間だった。

職場でも家でも同じようにフッテージを触っていると流石に頭の中がめちゃくちゃになる。悩みの詰まった箱から中身をいちいち取り出して除けて、窓を開けて空気を入れ替えて、なんてやるより自分からその場を移動すればまったりできる。

 

手っ取り早いのは後者だ。

その理由として煙草は良い。

 

それに、これは少し気取った言い方になってしまうけど「時間の流れ方が変わる」。

空気の流れが可視になる5分間/1本は、イスで背伸びするくらいじゃ得られない解放感。籠るタイプの人間に、これもまたうってつけ。

 

 

映画の喫煙シーンはきちんとやるべきだ、

って押井守が言ってた意味もようやく少し分かった。



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そういう”かつてワケの分からなかったもの”が年を取ると突然横っ面を殴ってくるみたいなことがこの頃どうにも多い。「ハウルの動く城」を見た。小さい頃あんまり好きな作品じゃなかったことだけ記憶の片隅にあって、金曜の晩だしゆっくりするかなあと何の気なしに金ローを流してたけど、かえってどっぷりのめり込んで疲れちゃったほど。


風立ちぬ」が男の映画なら間違いなくジブリ屈指の女の映画ってこれだし、しかもどっちも大人向けだよね。ときめきは老いすら通り過ぎる、ってアニメでしかやれない画のロマンティックさだし、ドラマに着目すれば細かい部分で時系列のまたぎ方がえげつない。

ソフィーの見た目で惑わされてる人が多い(自分もそう)みたいだけど、細かいとこ突き詰めればそのえげつなさが浮き彫りになる。「ニンゲン合格」冒頭みたいなやり口をド中盤でやりよる。それもさりげなく。伝わるわけがない!でも励みになるわあ。

とことんやっちゃってわかんなくったっていいんだもん。

そういうエクスキューズは間違いなく観客の心に重層を生むね。


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それでこないだのトトロも同じように観たんだけど、ほとんど暗記してるくらい覚えてた。確かVHS買ってもらって再生できなくなるまで見たんだよなあ。

つーかあの映画怖すぎな。都市伝説云々も言われて当然だよ……笑
さつきが"良い子"で、しかもかわいくなけりゃあ成立していない物語。

これまた御大のやりたい放題だ。

思い返せばしんちゃん映画とトトロ、スターウォーズ旧三部作、ジュラシックパーク、バックトゥザフューチャー。それらは小さい自分にとって反芻するほど深みにはまる畏怖の対象(黒沢清も言ってたような……)であり、心躍る景色を見せてくれる圧倒的正義でもあった。

墓参り前の実家で幼稚園の頃、こどもちゃれんじで作ったアルバムを発掘。
読めば「映画監督になりたい」の文字。ちょっと泣いた。茨の道だよ。



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そんなきびしい暮らしの中、自己チューでいけないぼくにはすっかりわからなくなってしまった「夏曲ハズレなし理論」を振りかざす乃木坂のAKB化に泣き、アイドルネッサンス解散による”清廉さ”の不在に打ちひしがれる夏。心の空洞を正しくを埋められるのはいまfedressしかいない!と声高に叫びたい(ぼくのアイドル論はどうでもよくて、バンドとしての無二性が土台にあってとっても気になっています。みんな聴こう。2曲で映画撮りたい)。

 

 

ライブでは振付がつくみたい。新しいインディーポップだ……。



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短いけど宣伝も込みで今回は終了!

 

次回「天才はあきらめた」の雑感と、

Aマッソとyonigeにみる女性観について書きたい。

 

あくまで予定。

 

総持寺駅


人間生きてると色々振り返って反省をするのが性で、
前回のブログにおいて一番あちゃあと思った点について、まず誤解を解きたい。

 

タイトル。

あたらしい海のこと、
病気の話、
天才はあきらめたの雑感、
Aマッソのネタから一節。

 

これらをまとめて表題としただけなので、悪しからず。
別にハァ……みたいなことでつけたタイトルではないので、
おちこんだりもしたけれど以下略。
前回から引き継ぐと見てくれ重視で四文字縛りがいいかなと思うので、
今度はとりあえず最寄り駅の名前にしておく。あら平和。

 

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さて、Balloon at dawn。
ラストアルバム、Tide発売おめでとうございます。
大げさな言い方にはなるけど平成という時代の終わり、
来年には20代前半という免罪符が消失してしまうぼくらの夏に(層が狭い)、
じわっとだけど確実にしみいるようなアルバムなんじゃなかろうか。
ボディーブローだなんてよくいうけどありゃ素人が食らうと滅茶苦茶痛いはず。
なんというか、ぼくにとってはきっとずっとそんな作品。

時間と予算と力量が足れば、
全曲繋いで映画にだってしたいくらい。

そんなTideから"あたらしい海"に続いて、
撮影・演出・編集を担当した"hanagumori"のビデオが公開になった。

 

 

 

 

・前作からの続きでいきたいな
とか、

・マルチ画面でいきたいな
とか。

もちろん撮影中の細かい設定もそうだけど、
前段階の大枠についてぼくは井口くんの意見を大いに取り入れる。
どうやら自分はゼロから何かを生み出すのがとっても苦手なので、
小さな種でもひとつもらえるとそれはもう一生懸命育てるのです。
ほかにも具体的にはフォントだとか文字の位置とか、
デザイン的な部分もこれまたあまり得意じゃないから、いつも助けられている。
井口くんの「監修・構成原案」という表記はそのためだ。

 

Girls around the gate、三月、あたらしい海、hanagumori。
胸を張って「これはぼくの作品です」と全部に言えるけど、
まあ当たり前な話、「ぼくだけの作品」でだってあるはずないのだ。

 

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"hanagumori"は……前回も書いたけど"あたらしい海"納品後から病気で1ヶ月、
本気で死ぬんじゃないかとフラッフラの状態で仕事をしながら、
今生にしがみついた期間に素材をしっかり精査し選んで、
ほぼ完治してからやっとこさバタバタと編集に入った。

だからというかなんなのか迷いのない、気迫のある画面になったし、
そんな瞬間とすらきっぱり決別するような。そんな勢いのあるカッティングが実現出来た気がしている。

 

Kensei Ogataさんの音から着想を得た部分も多くて、
せっかく2画面なのだから映像としてもステレオ的な立体感が出るよう試みた。
こういった編集はきっと自分からやってみよう、とはならなかったので貴重な経験だった、
というか、単純にすっごくいいのができたな!と思う。

 

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この場を借りてお礼を言わせてください。
東京での素材撮影をお願いした主演のミオさん、
心得があるので求めている"都市観"を理解した素材に安心した。

友人の松井、車貸してくれた惣前、いつもありがとう。
後輩の加納はカメラ長いことごめん。三脚は風で折れたし。

藤井さん、改めてだけどミオさんも。
海での撮影の素材、1年前のを今回ばっちりフックアップできたと思う。
長い撮影にも付き合ってくれて本当に感謝です。ありがとう。また会おう。

最後に1年前の自分、膨大な素材撮影ご苦労さん。
膨大すぎて整理が大変だったけど、Girlsでは使ってない、
でもちゃんと地続きの良いフッテージたちは報われたはず。

 

今際の際の走馬灯のようであり、無限に続く生き地獄のようでもある今作。
それでも生きていかなきゃならないと歩いていった彼女たちの背中。
撮影の日は風がほんとうに強かった。

 

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前回のブログのあと、きっちり再見した風立ちぬだけど、
創造的人生の持ち時間は10年……というセンテンスの意味を、
どうやらしばらく勘違いしていたかもしれない。
最後のあの煉獄。墜ちる零戦。でも風は吹いてるんだよな。
時代の焼け野原にだって、たとえそれが皮肉としても、どうしたって時代の風は吹く。
The answer is blowin' in the wind、である。

"風が立つ 生きようと試みなければならない"

何度見たって涙がこぼれてしまうセリフは、
「美しいところだけ、好きな人に見てもらったのね」。

 

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総持寺という駅に引っ越して3ヶ月が過ぎた。

学生時代行き来していた辺りだからなんとなく選んだ町だけど、
通り過ぎるだけじゃあやっぱり知らないことも多い。
住んでみると、で気付いたのは北摂地域じゃあまり治安のよろしくない部類で、
まあそれが大阪南部出身のぼくからしてみれば逆に勝手知ったるみたいな節もあるのだが、
特段言うなれば人身事故が頻繁に、というか、運行遅延の原因となることの多い駅だ。
徒歩5分県内の最寄り駅で少なくともこの2週連続、誰かが線路に跳び込んでいる。

 

ついさっき。帰り道の出来事だった。

 

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今日は職場で、それこそボディーブロー食らったような苦い思いをした。
引っ越して3ヶ月、1ヶ月だけ家から通ったので入社から数えるともう4ヶ月になる。
前の職で舐めた辛酸のひりつきは一生忘れないだろう、本当に絶対に。
同じ過ちは繰り返すまい、自分が悪くなくったってそういう気持ちではいる。

とはいえ新天地も時間が経つとむしろ厄介ごとの方から暑中見舞いが届いてしまったりする。
封は開けずに捨てちまえ、といくらTOMOVSKYが言ったって、
ぼくらは職場で「○○様宛書類」に自分の名前があると途端にそういうわけにもいかなくなる。
というか封を開けるも何もこのごろ世間は夏休みだし配達物が遅れがちで、
そのどうにもならない状況を「なんとかして」と言われてしまったりする。ほぼ毎日。

他諸々の理不尽は割愛。
どないせえっちゅうねん。

 

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帰りの電車飛び乗って、そういやあなんで転職したんだっけ、とかちょっと考え始めていた。
漫然と脳裏によぎってた言葉。「いっそ死にてえなあ」が口をついて出る。
この間まで部屋で泣きながら悶えて闘病してた手前、なんて罰当たりなやつなんだろう。

こんなときは各駅停車で帰る。別に急ぐ理由もないしどうせ乗換で待つのだ。

最寄駅目前、19時58分。56分発の電車が動かない。なんだかおかしい。
イヤホンをはずして辺りの様子を伺う、「人身事故です、しばらくこの電車は動きません」。

 

発生は最寄駅、なんだか叱られているような気分。
意を決して、はるばる線路を家まで辿ることとした。

 

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死体が出たんで沿線、あちこちで救急車と何度もすれ違う。
探すもののないスタンドバイミーとはなかなか空虚なもんだけど、
パトカーがやってきて溝を突っついては去る、みたいな光景に探し物の不在を安堵する小心者の自分はどこまでも普通の人だと呆れ笑い。

地図は見ず、本当に線路だけを頼りに歩いてみる。

最近読んでる都市論の本によれば、
"当て所なく都市をふらつき俯瞰で批評する人"のことを遊歩者(フラヌール)というらしい。解説は続く。

 

「都市を自分の夢の中に引き込み、
街路は彼を遠くに消え去った時間へと連れていく、
追憶と陶酔にひたって通りを散策する者は、
目に映りゆく過去の建造物や読書の知識を自らが経験したもののように覚醒させる……」

 

うーん、ないまぜにしたい気持ちはわかるぜ。
でももう少しぼくの悩みは実体を持ってそばにあってさ、
とはいえまだまだ家までも答えまでも相当な距離を予想したぼくは、ふとあることを思い出した。

 

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今朝方、京阪も人身事故で止まっていたそうだけど、あれはちょうど1ヶ月前だったか。
奈良は近鉄郡山で自殺配信をした16歳の女の子。

 

彼女もまた「美しいところだけ」を……好きな人がいたのかいないのかも最早知れないが、
間違いなく、きっと誰かにその瞬間の姿を見ていてほしかったのだろう。
件の映像を、すみません、悪趣味かもしれないけれどなぜだか1度だけ拝聴したけど、
もう本当に、いろんな気持ちが沸き起こりたくり、どうしようもなかったんです。
でもどうしようもないから、どうもないふりして普通に暮らすしかなくって。
大人になるってこういうことなのかもしれない、確かにいちいち反応して影響されている余裕はないのかも。

だけど決して忘れたくないし、忘れちゃいけないって思ってる。

彼女のことを誰も忘れちゃいけない。

 

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高校時代から好きでずっと聴いている転校生、
"ほうかご"がベストワンだけど今日の気分は"エンド・ロール"だった。
歌いだしはこうある。

 

「きみがもし死にたくなっても/ぼくにはなにもできない/
きみがもしいなくなったら/ぼくは泣いちゃうんだけど」

 

 

 

 

もし仮に、仮に、の話。
この曲における死にたいきみの友人の、そのまた友人がぼくだったなら、
「でもあなたはちゃんと泣けるんじゃん」って言ってやれると思う。

宇多田ヒカル乃木坂46もかつてそう歌ってた。

 

女性の言葉だけが届く患部。
それはきっと誰の心にもある。

 

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見慣れない通りばかりで行き止まりも何度も、
そうしてクタクタになりながら、暗く長い道のり。
最後まで見慣れないまま気付いたら家の前。
全然わかんなかった、こんな帰り方があったんだねえ。

 

と、ドアを開けクーラーを入れて扇風機を回して、
あれからもう2時間ぐらい経ったか。

すっかり部屋は涼しくなったし、晩御飯はところてんかな。
いつのまにか電車の運行はとっくに再開したようだ。

 

どうっという轟きと共に、生ぬるい風は吹く。
その空気が、果たしてなにを孕もうとも。

 

新病諦A


突然だけど、今日からブログを始める。

別に誰にも晒さず日記でも付ければいいのだけど、いかんせん字を書くのは苦手だ。
その癖、中学の頃からタイピングだけはクラスで一番が獲れたような人間だから、紙に何かを書き記すよりディスプレイに向かっているのがバイオリズムとして自然なのだ。

それに誰かが見てくれる、と考えると少しはマシな言葉運びを心がけるってもんで、
こういう書き置き場をスタートさせてはやめてしまう臆病さを今回ばかりは捨て去って、なんとか長く続けたい。見守っていただけるととても嬉しい。

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まずは近況。
脚本・撮影・演出・編集を担当した、
Balloon at dawn"あたらしい海"(Official Music Video)が公開になった。
https://www.youtube.com/watch?v=0dD6PjskxyQ

バルーンの撮影はいつも楽しい。
と言っても3本,4本程度しか関われてはいないのだけど、
とはいえぼくがお付き合いしているバンドの中では最も多作な部類に入る。
「Girls around the gate」出演者募集には3,40人の女の子がメールをくださった。
無名の監督の作品で色々リスキーなのにあれだけ連絡があったのは間違いなくバンドの力だし、予想以上の応募の結果、いまだに自分でも見返すほどお気に入りの「三月」制作だって決まった。
そんな大船に乗っかって「ビデオ」という領海においてだけは約2年間、舵を切らせてもらったけど、撮影中のぼくが出演の藤井さん、ミオさん、三月の横井さん、また同行して画角や演出を見てくれた井口くん、三月で補助してくれた上田くんや小松くんにどう映ったのだろうか。これまでもこれからも天狗の鼻がうっすらでも見えたら遠慮なくチョップをかましてほしい。

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まあそんなことはどうだってよく、

Balloon at dawnはアルバム「Tide」で活動を終える。
2017年末にデモ段階の「あたらしい海」と完結の話を井口くんから聞いて、
すごく寂しいと同時にそうだよな、という思いがよぎったのもまた事実。
渾身のフルアルバムという幕引きは悲しいけれどやっぱりどうしたってすごく正しい。
立場上、一足先に聴かせてはもらっているけど言葉にできないほど本当にすごいアルバムで、それを言葉にしてしまうとネタバレになってしまうので、発売後、機会があったらどこかで話せたらと思う。

メンバーのみんなが、ビデオに出演してくれたみんなが今後どんな道を歩むのか詳しくは聞いていない。けど仲良くしてもらえたら嬉しいな。
各々の活動のお手伝いは勿論だけど、普通にご飯に行ったり、遊びに行ったりだってしたい。
それと、あの時メールをくれた女の子たち、みんなに何かいいことがありますように。

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「あたらしい海」の編集が終わった6月後半から大きく体調を崩した。
最初は喉が痛く、熱が出た程度でまあ大丈夫だろと職場に通うも帰宅すると39度から一向に下がらない。
扁桃炎の診断が出て1週間、2週間と薬を飲んだり、たまに会社を休んだり。
そうやって誤魔化すも全く効き目がなく、3週間目でいよいよ声が出なくなった。水を飲むのも激痛が走る。
読んで字の如く息も絶え絶えに大きい病院にかかることになった。
血液検査やCTを経て出た結果は「エプスタイン・バール・ウイルス」。
今はもうまったくその気は失せたけど、慢性化すると死にも至るそうで。
経過はしっかり見ていかないといけないんだと。元々喉が弱い自分を呪った。

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物理的な症状として肝臓の隣、脾臓という臓器が腫れているようで、
バスケットボールのパスを受けると最悪死にます、と言われたがこれが危なかった。
引っ越してから熱が出るまで、毎週の休みはひとりレイアップに勤しんでいたからだ。
元気になった今もなお、触れば自分で痛みが解る程度に脾臓は腫れている。
昔から病院とは縁のある方だったけど、今回ばかりは本当に死んでいなくてよかった、と思った。
しかしまあ、バスケットコートとプールが近いので今のアパートに越したのもつかの間、腫れる脾臓のおかげで1か月は安静が必須とのこと。この夏はもう、何もできない。平成最後だって周りは大忙し。ぼくは静かに何冊かの本を購入。
プライムデーに心から感謝。

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そうして到着したうちの一冊「天才はあきらめた」山里亮太
まだ読了はしていないけど、わかりよい単語で紡がれる切実な才能への渇望。目を背けたくなるほどの共感がある。
職場へ通い、お金はもらっているけどぼくもまだまだ先は長い。
売れるまで5年?10年?15年?だから自分は言うなれば芸人だ、
なんて錯覚することがあるけど、あながち間違っていないと思う。
そこ鼻チョップすな。

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最近お笑いでハッとした瞬間。

「女には下積みって言う概念がない!」。

ちくまでのコラムも楽しみにしているAマッソ、大好きなDVDにも収録されているネタ。
教師がラーメン屋になりたい不良生徒を野次るうち、ボケもツッコミもないまぜになっていくコント。性差を自虐的に切り捌いていく様相がおかしく、見るたび笑えるのにどうも心に響いて鳴りやまないこの一節。
男女問わず、ずっとこの社会に足りないのはきっとこの感覚じゃないか、と思う。

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先輩のいうことを絶対聞け、飲み会は盛り上げろ、
……とかそういうことでは全くなく(余裕があったらやってみたらいいと思うが無理は禁物)、
どうも学生から社会人というものには決定的な過渡期がなく、やはり突然社会に放り出されるような感覚がある。
実際、去年に学生から社会人の立場になって、大きすぎるギャップを感じたのは事実だ。
予行演習も何もないまま「現場でものを覚えろ!」。
という割にアナログもデジタルも入り混じった現状じゃあれもこれもなんのこっちゃさっぱりだ。
きっと大学なんかを出てから2年ぐらい、真剣にバイトでも続けてからじゃないと正社員なんて勤まるもんじゃない。
その割に親族や満員電車はホラホラ社会人なんだから、とぼくに無謀な責任や保険の支払いを押し付ける。
窮屈すぎてぼくはその電車から降りた。

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そうして職を変え、実家を出て、ある種の自由を手にして早4ヶ月。
はっきり言うと、以前と比べれば随分気楽にやっている。
もともと就きたかった職業、というか目標とする地点の為に通過が余儀ない職種で、
高校生の頃から道筋を探り、演劇、ラジオ、映像と手を変え品を変えやっと落ち着いた場所。
不満はゼロではないにしろ去年の今頃と比べればずっと心地良いし、
大阪市内の空の狭さより、京都市内の山の近さが自分には合っている。
この先きっと色々あるけど、ひとまず乗り換えがうまくいって良かった。
なんて安心している折、職場の方にご飯に誘ってもらった。
尊敬できる技術を持った猛者ばかりの環境、断る理由なんてない。
どんな話が出来るかとネタをいくつか仕込んでいたけど、
思いの外シリアスな切り口に3時間、ぼくはじっと聞き入り感嘆すらできなかった。
どうしてあの人はぼくを誘ってくれたのだろうか……。
帰りの電車で「天才はあきらめた」が、Aマッソのあの一節が、左右から同時に鼻チョップを食らわせた。

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実家を出て住処を得た、そんな自由をぼくは少し勘違いしていた気がする。
1日に何通アマゾンの箱が届いたって誰も咎めない。
メルカリでスチャダラパーのTシャツを買った。
別に自由になりたいから家を出たわけじゃないのに。
やらなきゃいけないことがたくさんある。瘋癲こいてる場合じゃない。

昔からぼくは天才じゃない自覚があった。

みんなは出来た逆上がりだっていまだに出来ずじまいだ。

マイノリティー。学生じゃなくなり、社会から逸脱し、今がまさに下積みである。
ずっと前から志す本質は変わらない。やっぱり自分は特別なんかではない。
実家から持ってきた「風立ちぬ」を久々に見返す。そんな浅ましさをどうか今晩は笑ってほしい。