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煮凝肩凝


(本業以外は)暇になるだろうと見込んでいた下半期、
ありがたいことに9月あたりから何件か制作の依頼があって、
また思いのほか本業の方も忙しい昨今でしてブログの更新はすっかり滞っていました。

「面白いからいつも読んでる」と言ってくれた何人かの友人には申し訳ない気持ちでいっぱいですが私は彼らを信用しているので、きっと私が「追い込まれたら単に追い込まれてしまうタイプ」なのもきちんと理解くださっていることと思います。
なので今も絶賛追い込まれてはいるんですがふと感じるところがありまして、
日に日に重く分厚くなっている腰回りをよっこらせとデスクの方へねじり、ブラウザを立ち上げてみた次第です。

 

日常的な出来事から色々紐づけて考え、

書いていけたらいいかなと思ってこんな場を設けてはじめてはみたものの、
先述の通り、制作の依頼があるということは脚本を書かなければいけないわけで。
特段私はこの脚本という作業の進みがいつも芳しくないというか、

人と比べてどうにも遅い気がするんです。
だから最近は脚本家(とは名ばかりのか弱き友人たち)を別に立て、
絵コンテ前のイメージをある程度固めてもらったりもするのですが、

いや、でも面白いです。
自分以外の誰かの手つきに映像を触発されることもあったり。
もちろんMVだと音や芝居でそんなことは多々起き得るんですが、逆に音や芝居以外からって体験があんまりないので。
とはいえ書いてもらったものを反芻した上で「映像的にどうなのか」の線引きをしてしまい、ほぼ修正してしまうのでこればっかりは申し訳ない限り……。

 

以下はその線引きに関する言い訳なんですけど、
映像化して陳腐になるものとそうでないものってやっぱりあると思っていて、
それがまたアニメーションと実写では線引きが若干異なっていたりで、
私はアニメーション的な考え方で実写をコントロールしたい欲求を持っている人間だから、なんというかその、まあ、あんまりアニメアニメしいものばっかりを好んでいるわけではないんですね。ここ割と勘違いされがちなんですけど。

 

絵として映えるものと画として映えるものって違うし、
肉体的に映えるものってなるとまた違ってくる。
更に言えばMVは何よりもカラオケビデオになる危険性の真隣で成立しているようなもんなので、そのあたりの感覚は先述の脚本家(とは名ばかりの以下略)とこれからも付き合っていくなら、なんとか上手く擦り合わせられたらいいなとは考えてます。
やっぱり見てきたものって違うし、同じだとして何を見るかは違ってくるし、それを再現する手つきがそれぞれ違うから演出っていう概念が生まれているんだろうことも一応理解はしているつもり。

結局こうして説教臭くなる(割に自分だって大したこと出来てない)のも嫌なんでほんとうまくやんなきゃなと、
演出家(とは名ばかりのか弱い病弱メガネデブ)は悩むのでした。

 

だけどね、最近なにより悩むのが「こんなの職業にできるわけないじゃん」ってこと。
だいぶ語弊のある言い方だけどそもそも演出業って「ごう」であったとて「ぎょう」にはならないんじゃないかって。
自分の体験や言語化できない何かを形にせんと人生を切り売りする、実現までの時間のかけ方に対して、適切な給与なんて支払えるわけないと思うし(少なくとも自分はいくらもらったところで満足なんて一生できないんだろう、最悪だねごめん)、そこに必要な莫大な資料とかも経費じゃ落とせないじゃん。例えどこかに所属していても全部を認めてもらえるわけじゃない。

世の中に無限に垂れる見識や、雑味すなわち経験知(引用元:マテリアルクラブ"Nicogoly")の蜘蛛の糸を手繰って例え手応えがあっても、先に釈迦が待ってるなんてこともない。

 

だから「ごう」であっても「ぎょう」じゃないなって思う。

業(ごう) : 人が担っている運命や制約。主に悪運をいう。 (大辞林)

あー。

 

 

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「演出家になりたいって言ってた割にお前、なんかしてんの?」
→家に帰ってコンテを描いています。

職場で寝るあなたみたいに"公私混同"はしていません。

 

「もっとコミュニケーションとりなよ」
→自分がされて嫌なことを誰かに対して、決してしたくないだけです。
私が嫌だと感じるラインを余裕で超えてくるあなたは私の努力を見てないか、

線すらも見えてないだけ。

 

 

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「楽しく売れることを目指すことは、良くないことだろうか。」

とはAマッソ加納さんのコラムから。

 

ため息はつきたくないな~。